この世で生きる意味
人は何故この世で生活をし、何故この世で学び、そして死ぬのか。それは前回にも書いた記事にもあるが、
人はこの世の陰陽という世界で如何に学ぶのかというお題を掲げ生きている。
この世には沢山の人々が生活をしている。そして職場、学校、ご近所、出掛けた先で様々な人達に出会う。しかし、全ての人に出会う事はなく、必然的に出会う人の縁と言うものがこの世の仕組みの一つである。
そしてまた一番のトラブルと言うのもまた他人との人間関係のトラブルが大半を占める。それを人はそのままトラブルと取るであろうが、そのトラブルこそ大きな学びと言う物の一つである。
何故人はトラブルから学ばなければいけないのか。
それは自分と他人は考え方、見方、そして生活環境全て違う。だからこそ意見の食い違いなど、様々なトラブルが起こる。人はそこから新たな意見や考え方など様々な視点を得ているのだ。もう一つは因果応報である。因果応報とは自らの善悪の行動がそのままの報いで現れ返ってくると言う事である。そもそもトラブルと言うものは突然起こる訳では無く、因果応報という言葉通り、自らに返ってきた結果であるが、また同時にその原因も存在する。人はその原因に目も向けず、ただただ目の前で起こっている物事を見たまま捉えてしまい、感情のみで処理をしようと思い、上手くいかず悩むもの。
因果応報とは原因と結果が同時に存在すると言う意味であり、「原因を知らずに解決の道は無し」という言葉がある様に、全ては自らの心の原因、または日々自らの弱さを積み重ねてきた行いが主な原因である。この世は陰陽の世界である為、良い悪いの物事の見方をしていれば必ずと言ってい良い程、皆は経験する事になってしまう。その良い悪いの判断をすれば全て間違った判断になり、陰陽の世界では良い悪いでは無い物事の考え方を身に付けなければ、同じ様な事柄が幾度となく訪れるのだ。それを言わばカルマと呼びさえする。必要なのは陰陽では無い新たな考え方を持ち、全てを理解する事でしか物事を止める事は出来ないのである。人にはそれぞれ決まった学びが各々に提供され続け、だからこそ、その学びをクリアする為に、必ず起こる事柄と理解をして欲しい。たまたま事故にあった。通り掛かりでトラブルに巻き込まれた。偶然何かに当たった。そのたまたま偶然はこの世には存在せず、全てが必然であり、全てが各々の学びの為でしかない。また全てが受け入れられる人になる為に、学びは必要な人の成長の糧になるのだ。学びから目を背けず、しっかりと目の前で起こる出来事を理解し、成長をして欲しいと我々は祈っている。目の前で起こる出来事を安易に取るなよ。全て意図したものである。人は学ぶ事それが生きる意味である。