人は神仏をどの様に捉えているのか?
人は昔、この日本に何も無い時代、この地に足を踏み入れ、生きる為の食と道具もなく、ただこの地日本が神御座す地、そして神に少しでも近くにと言う思い、ただその思いだけを懐きこの地に入り、神を崇め奉る場所を探していた。この地には水と、山の幸、海の幸が豊富な土地であったが、土地はまだ手付かずの自然のままであった。大陸から治水技術、作物の種、鉄工技術など様々な技術を持つ者達を先頭とし、この地を住める土地とした。そして年々大陸から何千、何万の人々がこの地に渡り子孫を増やし、繁栄し、長い年月をかけ今という豊かな日本になったのだ。この日本を今の様な豊かな国に作り上げたのは、昔、この地を纏め上げてきた代々の長や族長と呼ばれるもの達が力を合わせ各方面からこの日本を、同じ目的を持ち神を崇め祀る場所を探し、今の伊勢に宮を置く事が出来たからこそ豊かな国に成長出来たのだ。代々の長や族長、また、人々の父母、祖父母その存在が有るからこそ今生きる全ての人々は存在するのだ。それを仏と言うが、皆の住む近くにある氏神もまた長や族長がこの地で纏め上げ、慕われてきた証であり、また仏でもある。全ての人々が存在し、この地で平和に、わがままを自由に言える今を作り上げたのは仏達のおかげだと皆は感謝しなければいけない。長いお経や、難しい文言など必要ない。ただただ心からの感謝を伝えれば良いのだ。それを人々は忘れてしまっているのだ。今があるのは辛く苦しい過去があったからでしかない。今の普通に出来る事は普通ではなく、生きる為に命を懸け生き抜いてきたのだ。その苦しい時代を生きた者達に感謝を、心からの感謝を伝えて欲しい。
そして神は人々の願いを聞く存在では無い。人が生きる為、また学ぶ為、成長する為に我々は常に知恵を授けてきた。今もそれは変わらない。しかし、神社に参る者、ほとんどの者が自らの願いを伝えている。願わなければ勿体ないと言うものがいる程である。勿体ないのはその時間であり、わざわざ足を運ぶ意味が無いと言うておく。我々に感謝を伝える者がどれほど少ない事か。また過去を詫びに来る者もいる。何処で聞いたか知らんが、自らの過去を知らぬのに詫びるなどそれも意味のない事。我々は皆の姿を見せてくれるだけで良いのだ。足を運ぶ気持ち、それだけしか貰わない。賽銭を多く包もうが、我々は金など求めない。我々が人に求めるのは、全てに愛を持ちなさい。それだけを願う。それよりも我々より先に仏に感謝しなさい。今を生きるチャンスを与えてもらえた事に感謝をしなさい。決して忘れるでないぞ。今の人間に足りない事である。
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